たとえば、あの暗殺未遂事件と同じくらい、極めて重大な出来事。
「It’s Like That / Sucker M.C.’s」というデビュー作は、ロックの歴史の中でも稀に見る1枚です。
レコードレーベル「デフ・ジャム・レコーディングス」の元広報担当ディレクターで、音楽ジャーナリスト、ビル・アドラー氏の証言です。
「あの暗殺未遂事件」とは、1981年当時大統領だったロナルド・レーガン氏が銃撃された事件のこと。
「パーン!と銃声のごとく登場」といった、非常に不謹慎な比喩ではありますが、都市の荒廃を生んだレーガン政権への「ディス」でもあります。
過去最悪の失業率
行き来するヤツら、死ぬために生まれたようなものだ
知らないよ、俺には理由がわからないでもそんなもんだ
それが現実だ
こう叫び、「It’s Like That / Sucker M.C.’s」で1983年にデビューしたヒップホップグループが、ニューヨーク・クイーンズ区出身の「Run-DMC」です。
「Run-DMCの登場は、その後5年間の『ラップの基礎』を築いただけでなく、それ以前のラッパー達は、突如として旧式のスタイル(Old School)になってしまった」
ジャーナリストのビル氏はRun-DMCのデビューが、それだけインパクトの強い出来事であったと語っています。
当時のRun-DMCの何が新しく、それ以前のヒップホップとは何が違ったのか。
ここでは時間をヒップホップの黎明期までさかのぼり「先駆者たち」と比較しながら、Run-DMCの何が画期的だったのか探っていきます。
アディダス・スーパースター新作・新色コレクション(amazon)
ヒップホップの先駆者が、スポーツシューズをファッションにした
ロック・ステディ・クルーのケン・スウィフトが
スニーカーをBボーイのマストアイテムにした。
2005年に公開されたドキュメント映画「ジャスト・フォー・キックス」のインタビューより。
1970年代よりグラフィティ・アーティスト/デザイナーとして、ニューヨークを拠点に活躍するフューチュラ2000氏の証言です。
ロック・ステディ・クルー(Rock Steady Crew)は1977年にニューヨーク・ブロンクスで結成されたブレイクダンス/ヒップホップのパイオニア的なグループ。
確かに1983年公開の映画「ワイルド・スタイル」では、コールド・クラッシュ・ブラザーズの曲に合わせて踊るケン・スウィフトがアディダスの「スーパースター」を着用しています。
同映画より、同じくロック・ステディ・クルーのメンバー、ドーズ・グリーンによると
自分はプーマのスエード派だが、Bボーイが履いていたのは初期のスーパースターだ。履いてるヤツは多かった。
と語っています。
1980年代初頭、ニューヨークのアンダーグラウンド界隈では、BボーイやBガール、そして彼らに憧れたキッズ達などの間でスポーツブランド「プーマ」や「アディダス」がストリートファッションのアイテムとして定着し始めていたことがわかります。
プーマのクールなスエードや派手なカラー・バリエーションの洋服、例えば、リーのジーンズは色が豊富だった。
それにル・ティグレのマルチカラーのシャツ。
80年代はカラフルな時代だったよ。
ドーズ・グリーンが語るように、ブルックリン生まれの写真家ジャメル・シャバズ氏が発表した写真集「Back in the Days」には当時のBボーイ/Bガール達の着こなし、「オールドスクール」なYOU達が鮮やかに記録されています。
1980年代初め、NYC界隈のYOUたち
ル・ティグレ(Le Tiger)のマルチカラー・ポロのブルーとメッシュキャップの色を合わせ、ゴールドのアイテムでゴージャス感を演出する1981年のYOU レコードプレイヤー装備のシャープ社製ブームボックス(ラジカセ)「VZ-V2」を自慢げにポーズをとるブルックリンのYOU。バーガンディーのアディダス・キャンパスに同色のファットレースをカスタムし、ジャケットのカラーととコーディネートしています。 ピンストライプの襟付きのスーツベストスタイルに、ゴールドのロープチェーンでゴージャスにきめたYOU。金のブレスレット、リング、仕上げにゴールドのグリル(金歯)でポーズ。関連記事:クライドに学べ!最強コーディネート
こちらはシューズショップのショーウィンドウ。
関連記事:アディダス スーパースターを愛したレジェンドたち [ NBA/ABA ]
ショーウィンドウの最上段は「コンコルド」「トップテン」「ジャバー」
中段は「プロモデル」「リバウンド・ハイ」「リバウンド・ロー」「キャンパス」
3人ともにファットレースにカスタマイズした「スーパースター」を着用。フーディーに「リー」のジーンズ、そして「カザール」のサングラス。中央のYOUは「アディダス」のトラックジャケットをプラス。右のYOUはレザージャケットにカンゴールでクールにコーディネートしています。
ペンシルミニスカートにレザージャケット、ヒールでドレスアップしたウィメンズYOU。フープピアスをアクセントに。それぞれトップスとバケットハットを同色にコーディネートしています。 ブルックリン、フラットブッシュ地区にて、ユニセックスのムートンコートを着てポーズを決めるガールYOUたち。シープスキンのコートは、クール・ハークやトニー・トーンなど黎明期のヒップホップ・レジェンドも愛用した、定番オールドスクール・アイテムです。 (おそらく)ステットソンのハット、ホワイトレザー/ブラックストライプのスーパースター、カザールのアイウェアから、サイドステッチが同じジーンズまでお揃いの双子コーデ。トップスとアウターのチョイスで個性を出しています。 こちらもロウアー・イースト・サイドのYOUたち。モノトーンでキメた初期Bボーイのお手本のようなコーディネート。中央のYOUはブラックジーンズにブラウンのワラビーを。左端、右端のYOUはアディダス・スーパースターをチョイス。さらに黒のストライプには黒のファットレースを、赤のストライプには赤のファットレースをカスタムしています。自慢のラジカセは3ウェイスピーカー。シャープ社製のGF-9696。
音楽評論家アンドリュー・エメリー氏は、著書「ヒップ・ホップ・カバーアート」で当時のファッションと界隈の様子をこう表現しています。
どんな音楽もスタイルを持っている。モーツァルトのかつらから’60年代のポップミュージックの細身のスーツ、パッケージされたボーイズグループやガールズグループまで、どれほど音楽が異なっていても、ミュージシャンの外見はまとまっているように思える。初期のヒップホップのその通りである。
結束力が強く地元に根付き、’70年代後半のニューヨークのギャング・カルチャーから発生した頃には、すでに何を着るべきか青写真が出来上がっていた。
ディスコはもはや廃れかけており、ニューヨークには新しいサウンドや新しい衣装(太い靴ひもや大きなベルトのバックス、カザール)が誕生していた。
クラブシーンの外で、ラップは公園やストリートでのジャムから成長していったが、これは違法行為であったので行政は取り締まり、罰金を徴収していた。
ブロンクスでは1973年頃から、街灯の電源から無断で電気をひき、サウンド・システムを大音響で鳴らすなど、無許可でDIYなゲリラパーティーが遊園地や公園を会場に始まります。
地域のお祭り「ブロックパーティ」に、音響設備を持ち込み「ジャム」をはじめたのがジャマイカ出身のクライブ・キャンベル。「DJクール・ハーク」のステージネームで知られるヒップホップのパイオニアです。
ヒップホップ初のDJ、クール・ハークはブロンクスにジャマイカ文化を持ち込んだ
ラップ・ミュージック界のパイオニア、DJクール・ハークはジャマイカ・キングストン生まれ、そして1967年頃(家族と共に)渡米します。
クール・ハークのサウンド・システムは、規模的にも音量的にもブロンクス最大のもので、多くのストリートキッズや若い詩人(ポエトリー)、そしてグラフィティ・ライターやDJたちを惹きつけ、中でも特に「B-boy」たちを虜にしました。
こう回想するのはブルックリン生まれのラッパー、KRS-One。彼はクールハークが初めて開いたパーティ、1973年8月11日の「バック・トゥ・スクール・ジャム」を体験しています。
The Gospel of Hip Hop: The First Instrument / KRS-One
ジェームス・ブラウンやアメージング・ボンゴ・バンドなどの選曲から、「ブレイク」と呼ばれる演奏パートを(2台のターンテーブルで)ループさせるプレイは、ウェスト・ブロンクスの遊園地や公園に集まった、大勢の観客たちを魅了しました。
また、特にジェームス・ブラウンの人気曲は、クール・ハークの「おはこ」でした。
ブロンクスのDJたち、例えばエル・マルコ、マンディンゴ、DJマボヤ、エルヴィス007などもジェームス・ブラウンのレコードをプレイしましたが、クール・ハークは巨大なサウンド・システムを屋外に持ち出し演奏したことから「ストリートDJ」としてリスペクトされることに。
またブロンクスの遊園地や公園では無料で定期演奏を行い、このイベントはやがて「ジャム」と呼ばれるようにました。
「ジャム」のパーティ・スペースとなった公園は、ブロンクスのシーダー公園、123公園、161ストリート・ヤンキースタジアム公園、スティーブンソン・ハイスクール公園など。
「クール・ハークが、ブロンクスにジャマイカの音楽文化を持ち込んだことで、ヒップホップが誕生した」そう語るのは、BBCカルチャーのエディター、レベッカ・ローレンスです。
40 years on from the party where hip hop was born : BBC Culture
DJクール・ハーク、本名クライブ・キャンベルはジャマイカ生まれ。
1967年にニューヨークに移り住み、「印象的」な身長からニックネームを「Hercules」、短縮して「Herc」と呼ばれるように。
地元バンドのエンジニアであった父親、キースは多様なレコード・コレクションを所持しており、何よりも父の音響機器を利用できたことが、クール・ハークのDJキャリアを急成長させることになります。
その後ハークはハウスパーティーでDJを始め、いくつかの重要な「技術革新」を生み出していきます。
彼は2台のターンテーブルとミキサーを使用してレコードを切り替え、最も大音響で曲を聞かせるためのセッティング方法を開発。
キングストンで繰り広げられていた「サウンド・システムのバトル」を、若い頃に見続けてきたことがきっかけで、ハークはジャマイカのカルチャーをブロンクスにもたらしました。
轟く重低音とダブサウンド、レコードに乗せての喋りや語り、「トースティング」などの様式。
(ヒップホップジャムが誕生した)「セジウィック・アヴェニュー」のパーティーで、MCを務めたハークの友人「コーク・ラ・ロック」は、その後のラッパーに多大な影響を及ぼしました。
さらにハークが気づいた重要な点は、レコードのインスト部分「ブレイク」でBボーイやBガールたちが熱狂していること。
オーディエンスを楽しませるために、彼は「ブレイク」を求め、トラック(曲)を探し始めました。
ハークの「発見」による最も有名な楽曲が、インクレディブル・ボンゴ・バンドのアルバム「ボンゴ・ロック」と、その収録曲「アパッチ」です。
もはや小さなスペースでDJすることができなくなるほどに、1973年の終わり頃のクール・ハークは、ブロック・パーティーの人気者となっていました。
ブロンクスのシーダー公園や、キャパ数のより大きいクラブへと活動拠点を移し、地域の音楽シーンを牽引しました。
そして1977年頃にはサウス・ブロンクスのライバルDJたち、「アフリカ・バンバータ」や「グランド・マスター・フラッシュ」たちが次の出番を待ち構えていました。
ブルックリン出身のKRS-Oneは当時を回想します。
Beyond The Four Walls: The Rising Ministry And Spirituality Of Hip-Hop
すぐに、多くのDJやラッパーたちがクール・ハークのパーティーを「コピー」し始め、ブルックリンやマンハッタンのあちこちで開催されていきます。
そしてハークとブロック・パーティーのDJたちがヒップホップのメッセージを町中に広めたことで、たくさんのフォロワーを生み出していくことになります。
さらにパーティはボール・ルームや、ローラー・リンク(ローラースケート場)などを会場に拡散していきます。
関連記事:Kool Herc(クール・ハーク)
ヒップホップ黎明期のパーティー・フライヤーから
ニューヨーク州ブロンクスのボール・ルーム「サボイ・マナー」でおこなわれたコンサートのフライヤー(1981年7月17日)。「ノー・スニーカー」とドレスコードが指定されています。出演者はグランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ。
スペシャルゲストは
- カーティス・ブロウ
- スーパー・ライムズ(ジミー・スパイサー)
- センセーショナル
- コールド・クラッシュ・ブラザーズ
「ノー・スケーティング。ダンシング・オンリー」と釘を刺しています。
出演者は
- グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブ
- アフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォース
- ジャジー・ジェイ
- コールド・クラッシュ・ブラザーズ
出演者は
- L.A.サンシャイン(トレチャラス・スリー)
- フィアレス・ フォー
- ナイス・アンド・ナスティー・スリー
- コリンズ・ブラザーズ
- ブギー・ボーイズ
- DJ ブレード
当時のパーティーイベント、ヒップホップの黎明期について、「Run–D.M.C.」のDMCことダリル・マクダニエルズ氏は「ジャスト・フォー・キックス」のインタビューでこう語っています。
昔のラッパーは「ショー」をしていて、そのフライヤーがカッコよかった。
アディダスの靴にモックネックとスウェット、キマってたよ。
ニューヨークの限られた界隈では、アディダスが「すでに人気のあった」ローカル・ファッションであったことをDMC氏本人も認めています。
しかし、「フィアレス・フォー」「グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブ」「コールド・クラッシュ・ブラザーズ」といったヒップホップの先人たちは、レコード・デビューするとビジュアルのイメージを一新。
DMC氏も当時のことをこう言っています。
ヤツらのレコードが出て驚いた。
一体何があった?
コールド・クラッシュ・ブラザーズ
コールド・クラッシュ・ブラザーズは1978年にニューヨーク・ブロンクスで結成。オールドスクール・ヒップホップのレジェンドとしての充実期は1980年前後のライブショー。映画「ワイルドスタイル」でも再現された1981年ニューヨークのボールルーム「ハーレムワールド」での伝説のライブ、ライバルグループ「ファンタスティック・ファイヴ」とのバトルイベントでピークに達します。
激しいコール&レスポンスで何度も場を盛り上げるMCと、ディスコ以外のリズムを積極的に導入した多彩なDJテクニックは「教科書」として海賊版テープに記録され、ゴールデンエイジのグループへと受け継がれていきます。
「最初に買ったテープがコールド・クラッシュ・ブラザーズのライブだった」「それはまさに『アルバム』だった」
こう答えるのはRun-D.M.C.のDMCこと、ダリル・マクダニエルズ氏。
「誰かがライブにテープレコーダーを持ち込んでこっそり録音するか、DJブースでテープを手に入れるかして、ダビングしたものを街頭で6ドルから10ドルで売っていた」
とインタビューで語っています。
コールド・クラッシュ・ブラザーズのレコードデビューは1982年。
ワールドツアーを成功させ(1983年には来日)、セカンドシングルは大手「CBS」からの配給が決定。
ヒップホップ史上初の成功を機に、メンバーはステージ衣装を一新。リアルクローズなコーディネートを捨て、マッチョで奇抜なビジュアルへと変身していきます。
カオスなコーディネートについて、ロック・ステディ・クルーのドーズ・グリーンは「ジャスト・フォー・キックス」のインタビューで「1970年代のブラックスーパースターからの影響」と分析しています。
毛皮やナチ帽みたいなのに、トゲトゲのアクセサリー。
カオスだった。
よくわからないけれど。パンクとファンクとの融合だ。
あのスタイルは、おそらくファンカデリックやパーラメント。
1970年代のブラック・ロックスター、ブラック・スーパースターから来ていると思う。
グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ
「ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ホイール・オブ・スティール」を聞いて衝撃を受けた。
1981年にシュガーヒル・レコードからリリースされたシングル曲が人生を変えた、と語るのはヒップホップ界の重鎮ドクター・ドレー。
すぐに友人と一緒に、複数のステレオセットから2つのターンテーブルを分解して、ミキサーとのセットを作ることにした。ミキサーはママが買ってくれた。
私が音楽ビジネスの中にいるのは、グランドマスター・フラッシュからの影響が大きい。
さらにRun-DMCの故ジャム・マスター・ジェイも、DJをはじめたきっかけがグランドマスター・フラッシュの影響だったと語っています。
「(バンドの)ドラマーをやっていた頃、グランドマスター・フラッシュを見たんだ」
「それは自分の価値観がすべて変わってしまうほどの出来事だった」
伝説のDJ、グランドマスター・フラッシュと彼が率いるラップグループ、ザ・フューリアス・ファイヴは、1980年にシュガーヒル・レコードと契約。
「ラッパーズ・ディライト」に続くヒットが欲しいシュガーヒルのもとで、8枚のシングルと1枚のスタジオアルバム(+コンピ2枚)を残しています。
中でも唯一、グランドマスター・フラッシュのソロ名義でリリースされた3rdシングルが「ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ホイール・オブ・スティール」。
ターンテーブルとミキサーを駆使し、複数の曲の断片をリアルタイムでミックス。ループ演奏を完全にコントロールし、「バックスピン」「パンチフレーズ」「スクラッチ」などのテクニックを完成させ、DJプレイに反映させています。
「ジ・アドヴェンチャーズ〜」はDJの「ライブ演奏」がレコードに記録された最も初期のものであり、テクニックのショーケースとして、ゴールデンエイジのDJ達に大きく影響を与えた名作です。
関連記事:Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)
しかし、レコード会社にとってサウンドのメインはMC「メリー・メル」であり、「シュガーヒル・バンドの演奏にフューリアス・ファイヴのボーカルやラップを乗せる」というコンセプトで曲を次々にリリース。
1982年にはその到達点として、グループ最大のヒット曲「メッセージ」が誕生します。
関連記事:「ザ・メッセージ」:グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブ
アフリカ・バンバータと「ヒップホップ」
ブロンクスではギャングによる暴力が何年も続き、そんな現状に疲れ果てた10代の若者達は、自分自身を表現するための「新しい方法」を模索していました。
米ニュースメディアForeign Policyの特集「It’s a Hip-Hop World」より。
路上でのトラブルよりも自分たちの鬱積したエネルギーをどこかで消費したいと、若者たちは思っていました。
当時ギャングのリーダーだった「アフリカ・バンバータ」は、DJクール・ハークに触発されパーティーの主催を開始。
アフリカ訪問で人生観が変わるほどの経験したバンバータは、貧しく怒れる子供たちがギャングをやめるために、「ヒップホップ」を提唱します。
さらにこのメッセージを広めるために、ストリート組織「ユニバーサル・ズールー・ネイション」を結成します。
ブロンクスの貧しい若者達は、新しい「暇つぶし」の方法を見つけました。
ファンキーなアフロ・ラテンの影響を受けたグルーブに乗せ、ジャマイカン・レゲエ由来の(MC)スタイルをブロンクスのスラングに変えてラップ。
パーカッシブなブレイクに合わせて「乱暴」に踊り、壁やバス、地下鉄に自分のニックネームをスプレーでペイントします。
これらはヒップホップ独自の「4大要素」
MC、DJ、B-boy/B-girl(または「ブレイクダンス」)、グラフィティです。
政治によって見捨てられた地域と、そこに住んでいる子供たちの間に、ストリートカルチャーは「奇妙」な形で生まれました。
そして、10代が選択した無邪気な「遊び」は、要するに芸術的な先駆者が生まれる瞬間でもあったのです。
バンバータの新しい組織「ズールー・ネイション」を「暴力の代わりに音楽とダンスを用いる洗練されたソーシャルグループ」と紹介したのは、1982年9月21日発行の米カルチャー系情報誌The Village Voice。
パーティーの名称を「Hip Hop Beeny Bop」とバンバータが宣伝していたことから、紙面では「アフリカ・バンバータのヒップホップ」と紹介。
当時は「Hip Hop, Hip Hop」と、単に韻を踏むためのフレーズでしかなかった単語が、「ヒップホップ」としてメディアに登場した第1弾となり、カルチャーの名称として定着していきます。バンバータはスティーブンソン高校に在学中、アフリカの部族が登場する長編映画「Zulu」に触発され、「ズールー」という小さな社会集団を結成。
(ステージネームの元となった「Bambata」とは世紀の変わり目に南部アフリカ、ズールー族の首長だった人物のこと。単語を翻訳すると「愛情深い指導者」を意味します)
多くの点で、「ズールー」はB-boyスタイルの延長線上にありました。
暴力の代わりに音楽やダンスを用いる集団。彼らは(ギャング団)ブラックスペードの「洗練版」でした。
シンプルな短い曲をロック系のドラムビートとミックス。
続いてテレビ番組「マンスターズ」のテーマソングをかけ、素早くジェームス・ブラウン「I Got the Feeling」でギアチェンジ。
予想外の「カット」を見つけ出す才能に優れ、「目を丸くした」オーディエンス達は、彼に「マスター・オブ・レコード」の称号を与えました。
ヒップホップの聴衆に披露した音楽や「ブレイク」の代表的なジャンルは、ゴーゴー、ソカ、サルサレゲエ、ロック、ジャズ、ファンク、アフリカ音楽など多岐にわたり、バンバータは「マスター・オブ・レコード」と呼ばれ称賛されました。
The Music World of Afrika Bambaataa – Universal Zulu Nation
また、現在ラップミュージックやヒップホップカルチャーの定番と言われているレコードの初演もバンバータによるもの。
たとえば、ラルフ・マクドナルドの「ジャム・オン・ザ・グルーヴ」「カリプソ・ブレイクダウン」、ハーマン・ケリーの「ダンス・トゥ・ザ・ドラマーズ・ビート」、モホークスの「チャンプ」、「アンディ・グリフィス・ショー」の主題歌、「ピンク・パンサー」のテーマ、クラフトワークの「ヨーロッパ特急」その他数百に及びます。
アフリカ・バンバータは2つのラップグループ「コズミック・フォース」「ソウル・ソニック・フォース」を率い、1980年ポール・ウィンリー・レコードから2枚のシングル「Zulu Nation Throw Down (Cosmic Force)」「Zulu Nation Throw Down (Soul Sonic Force)」でレコードデビュー。
その後インディーズ・レーベル「トミー・ボーイ・レコード」に移籍し、1981年にはアフリカ・バンバータ & ザ・ジャジー・ファイブ名義で「ジャジー・センセーション」を、そして翌年1982年にはソウル・ソニック・フォースと名曲「プラネット・ロック」をリリースします。
人間と機械
ラップミュージックは「エレクトロ」へポピュラー音楽の歴史的文脈の中での、1982年のシングル「プラネット・ロック」とは。
Afrika Bambaataa & The Soulsonic Force: ‘Planet Rock’ : SOS
ブレイクビーツに、ボコーダーとアメリカで一番最初のフェアライトシンセをブレンドすることで、ラップを一変。
コンピューター化された未来的な「ロボットファンク」を創造しました。
それはローランドのドラムマシン「TR808」を使用した、初のヒップホップ/R&Bトラックであり、その後のダンスミュージック、トランス、テクノ、ハウスへの道を開きました。
「プラネット・ロック」は、リリースまでの製作費900ドルと引換に、トミー・ボーイ・レコードのレーベル確立に成功。
ヒップホップをメインストリームに押し上げただけでなく続々リリースされるエレクトロヒットをはじめ、その後のダンスミュージックへの扉を開きました。
1982年6月にリリースされた「プラネット・ロック」は惜しくもトップ40逃しましたが、R&Bチャートでは4位を記録。
次回作「ルッキン・フォー・ザ・パーフェクトビート」と並び、まさにヒップホップの古典であることを証明しました。
電子音へ劇変したサウンドの着想について、アフリカ・バンバータはredbullのインタビューでドイツの電子音楽グループ「クラフトワーク」からの影響、と語っています。
Interview: Afrika Bambaataa / Red Bull Music Academy
ブラックミュージック初のエレクトロニック・グループになりたかった。
私はいつも「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」に夢中になっていて、クラフトワークが次の曲「ナンバーズ」をリリースした頃、「2つの曲を組み合わせて、ハードなベースとビートで、超ファンキーな曲ができないだろうか」と提案。そうして曲と曲とを混ぜ合わせていった。
単なるクラフトワークのコピー、とは思われたくなかったので、キャプテン・スカイの「スーパー・スパーム」というトラックを追加した。「スーパー・スパーム」のビートは、シンセサイザーが上昇するパートで使っている。
それからもうひとつ、ベーブ・ルースの「ザ・メキシカン」を追加。これは(イギリスの)ロックグループで、リフはスピードを上げた。
プロデュースは前作「ジャジー・センセーション」に続き、アーサー・ベイカーが担当。さらに彼の右腕、ジョン・ロビーがキーボード演奏とプログラミングに参加しています。
多くの人がプラネット・ロックは「クラフトワークをサンプリングした」と思っているようだが、それは真実ではない。
ジョン・ロビーは、すご腕のシンセサイザー・プレイヤーで、本当に演奏が上手だった。だから、レコードをサンプリングしたように聞こえるのはそのためだ。
サンプリングが誕生したのは「ルッキング・フォー・ザ・パーフェクト・ビート」をリリースした後のこと、「エミュレータ・マシン」が出たのはその頃だ。
今では小型化されて、誰でも手に入るようなサンプリング・マシンは当時はなかった。
「プラネット・ロック」のリリースにあわせ、アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースはビジュアルを一変。
ビフォー
「パーリーピーポー」のコールとともに奇抜なコスチュームで登場します。
アフター
「プラネット・ロック」のサウンドは1980年の先を予言した未来の音ですが、ビジュアルはブラックミュージックの先人たち(ジェームス・ブラウン、サン・ラ、スライ&ザ・ファミリーストーン、ジョージ・クリントンなど)のコーディネートを正統継承しています
参照:ジェームス・ブラウン
参照:スライ&ザ・ファミリーストーン
参照:ジョージ・クリントン
参照:パーラメント・ファンカデリック(ジョージ・クリントンは一番左)
参照:サン・ラ
参照:サン・ラ
アフリカ・バンバータ
アフリカ・バンバータ
アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォース
アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォース + シャンゴ
アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースのポートレートを撮影した写真家ジョージ・デュボース氏は、アートワーク本「ヒップ・ホップ・カバーアート」のインタビューで当時のことをこう語っています。
音楽の歴史上、あんな派手な服装は他にないと思ったね。ヒップホップの初期では現在の有名なデザイナーブランドはまだ存在していなかったから、あんな服装が典型的なものだったんだ。メッカもトミー・ヒルフィガーもパフ・ダディもカール・カナイもなかった頃さ。
関連記事:Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)
フィアレス・フォー
プエルトリコ系アメリカ人、ティト・ジョーンズを中心に、1970年代後半に結成されたThe Fearless Four(フィアレス・フォー)。4人のMC(ティト、グレート・ペソ、DLB、マイティ・マイクC)と、2人のDJ(クレイジー・エディ、マスターOC)からなるオールドスクール・ヒップホップグループのパイオニアのひとつです。
1981年にはエンジョイ・レーベルからデビュー曲「Rockin ‘It」をリリース。
同年リリース「プラネット・ロック」の影響下にあると言える、エレクトロなサウンドのプロデュースは「パンプキン」のステージネームで知られるエロール・ベドワードによるもの。グループ最大のヒット曲誕生の瞬間を、グループの創設者でMCのティト氏がインタビューで語っています。
パンプキンがやったことはすべて「魔法」のようだった。
「Rockin ‘It」を手がけたのは彼だ。
俺とグレート・ペソの監視下で曲作りが行われたんだ。俺たちは演奏について注文や、思いついたアイデアを次々に出していった。するとパンプキンは、そのすべてを選りすぐりのサウンドとして提示してくれた。
彼はクラフトワークの「The Man Machine」の超電子音を、ピアノのサウンドに変換していった。すると俺とペソとは「おお! 超いいじゃん!」となった。
パンプキンがリフを続けると、それが「感染源」となり俺たちは「やられた」。
「すげー、これはヒットするぜ!」
案の定「Rockin ‘It」がリリースすると、ラジオで常に鳴りっぱなし状態となった。
翌年1983年「エレクトラ」に移籍。カーティス・ブロウに続き、フィアレス・フォーはメジャーレーベルと契約した最初のラップグループとなりました。
ヒップホップの歴史書「The Men Behind Def Jam」によると、フィアレス・フォーが大手「エレクトラ」との契約の際、仲介を務めた人物がプロモーターでアーティストマネージャー、レコードプロデューサーのラッセル・シモンズだったと書かれています。しかしフィアレス・フォーのMCティト氏は、当時自身のグループがラッセル・シモンズ氏に「ハマっていなかった」と回想しています。
(ラッセル・シモンズとの契約は)たぶん、2年間だったと思う。ラッセルは彼の弟のジョセフ(ラン)やDMC(ダリル・マクダニエルズ)みたいに、金になりそうなヤツらに焦点を合わせていた。だから他の誰かに時間を割く暇なんかなかった。
ラッセルは次の「山」としてRun-DMCと契約を結んだばかりだったので、本当に彼らのことだけを考えていたのさ。
ヒップホップの「先駆者」たちは、Run-DMCの登場で「オールドスクール」になった
ギラギラ光り輝くグリッターパンツに、カラフルなマルチカラージャケット。
1970年代後半から1980年代初頭までのヒップホップの歴史を、写真で振り返ると「ド派手」な衣装を着用したラッパー達のコーディネートに驚かれることでしょう。
Jam Master Jay: The Heart of Hip-Hop / David Thigpenより
たとえば「ソウル・ソニック・フォース」を例に、第一世代のラップアーティストを見るとわかるはず。
その「衣装」が、たとえばマイケル・ジャクソンのものだったり、ラスベガスのマジシャンのものだったりすると違和感がないのかもしれません。
当時ヒップホップには、まだ「ルールブック」など存在しなかったため、何でもありだったのです。
初期のラッパーのほとんどは、いいアイディアが見つからなかったため、過去のR&Bとソウルミュージックの「クローゼット」をひっかき回して捜し、そこから思いついたスタイルを「ヒップホップ」と呼んでいました。
しかしそんな「過剰装飾」が支配した短い時代は、Run-DMCの登場によって終息を迎えます。
彼らはクイーンズ界隈の「ストリート」を自分たちのスタイルに取り入れていったのです。
そして、その後のヒップホップのほとんどすべてが、このRun-DMCの「様式」を模倣していくことになります。
同様に、当時「デフ・ジャム・レコーディングス」の広報担当ディレクターだった音楽ジャーナリスト、ビル・アドラー氏の証言によると、Run-DMCの登場がきっかけで「オールドスクール・ヒップホップ」というジャンルが誕生した、と語っています。
たとえば、あの暗殺未遂事件と同じくらい、極めて重大な出来事。
「It’s Like That / Sucker M.C.’s」というデビュー作は、ロックの歴史の中でも稀に見る1枚です。Run-DMCはその後5年間の「ラップの基礎」を築いただけでなく、現在「オールドスクール」と呼ばれるものを偶然に作り出してしまいました。
ラン達以前にレコーディングをおこなっていたラッパー達
(有名どころを挙げると、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ、フィアレス・フォー、ザ・トレチャラス・スリー、コールド・クラッシュ・ブラザーズ、ザ・シュガーヒル・ギャングなど)
は、突如として旧式のスタイル(Old School)になってしまいました。
RUN-DMCはシングル「イッツ・ライク・ザット」でのデビューが1983年11月1日。
ニューヨーク・クイーンズ区出身の、彼らのコンセプトは「リアル」でした。
ストリートウェアでステージに上がった初めてのラップグループ、Run–DMC
ある金曜日に俺の人生を変える曲を聴いたんだ。遊びに出掛ける前に友人と安いビールを飲みながら、Kiss FMのヒップホップ番組『Zulu Power Hour』を聴いていた。その時に彼らの『Sucker MC’s』を初めて聴いたんだ
トミー・ボーイ・レコードのA&Rとしてデ・ラ・ソウルを担当したダンテ・ロス氏はRedbullのインタビューで、ワシントンD.C.出身のハードコア・パンクバンドを例にあげ、自分の人生を変えた存在としてRun-DMCを語っています。
まるでBad Brainsを初めて聴いた時のような衝撃だったよ。凶暴でミニマルで、荒々しいサウンドで、ラップもタイミングが面白く、複雑で素晴らしかった。強烈なドラム、正確なスクラッチ、そして迫力あるラップはまるで耳元で叫ばれているようだった。
またグラフィティ・アーティストでラッパー、ビジュアル・アーティストの「ファブ5フレディー」は、RUN-DMCの第一印象が、そのファッションから犯罪系ヤッてそう(stick-up kid look)な人たちだったと「ジャスト・フォー・キックス」のインタビューで証言しています。
初めて彼らを見た感想は
“ヤバい連中”革のブレザーにゴッドファーザー・ハット
ブラックジーンズ(またはレザージーンズ)にアディダス
そんな格好ができるのは、本物のワルだ。
レコードデビューにあたり、RUN-DMCはジャム・マスター・ジェイの「私服」をグループのアイコンにすることに決定。
同映画のインタビューでDMC氏は
ある日、(ジャム・マスター)ジェイが現れて、ジェイは、黒い革のブレザーを着ていた。
黒い革のパンツにハイネックにゴールドチェーン、靴はアディダスで首に靴ひも。
ラッセル・シモンズは言った。
“衣装はない”
“今後は、この格好をしろ”
Run-DMCのスタイルが画期的だったのは、要するにシンプルであったこと。
Jam Master Jay: The Heart of Hip-Hop / David Thigpenより
(できればアディダスの)白のスニーカーに黒のジーンズ、レザージャケット、黒のベロアハット。時にはゴールドの太いネックチェーンでキメる。
Run-DMCのワードローブは、スタイルの重要性をオーディエンスに伝えていますが、同時に自分たちは「服に着られる」つもりはない、ことを伝えています。
このメッセージに共感したのが、ストリートキッズ達でした。
DMCは1998年のインタビューで(そのコンセプトが)成功の重要な要素だったと語っています。
「俺たちには『衣装』はなかった。そのままの服装でステージに上がったのさ。
そのことが、他のラップグループよりもファンと密接な関係を築いた。
ファンにとってステージの俺たちは『鏡に映った自分たち』を見ているようなものだったからさ」
DMC「(デビューアルバムの)サウンドはすべてラリー(スミス)が担当。
そして俺たちには、どんなレコードにしたいかアイディアがあった。」
Key Tracks: Run–D.M.C’s “Rock Box”
「たとえばシュガーヒル・ギャングがやっていることだったり、典型的なR&Bチャートの音楽にラップを乗せることはしたくなかった。
ブラックミュージック専門のラジオ番組でかかっているような、おなじみの曲を頂戴してレコードを作ることはしたくなかったんだ。
ランと俺(DMC)は『ビート・ジャム』をしたかった。それは、グランドマスター・フラッシュやグランド・ウィザード・セオドア、チャーリー・チェイス、トニー・トーンのようなDJ達がレコードを作る前にやっていたこと、カセットテープ時代のブレイクビーツにライムを乗せたかった。
俺たちはヒップホップショーのライヴ録音みたいなレコードを作りたかったのさ。
サウンドプロデュースはラリーだが、アレンジメントと曲を生み出したのはすべて俺たちだ。
俺たちは全ての曲をビート・ジャムで完成させたかったし、ラリーとラッセル(シモンズ)は、俺たちのビートをラジオ用のフォーマットに変える天才だった。
そうやって『It’s Like That』『Sucker M.C.’s』、そして『Hard Times』が完成した」
たとえば、クール・ハークのような「DJ」たちの登場が1970年代初頭。とはいえ、ラップミュージック初のシングルが発売されたのは1979年のこと。それがシュガー・ヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」です。
続いて翌年の1980年には、ラッパーのカーティス・ブロウが「ザ・ブレイクス」をリリース。ブロウのマネージャーだった人物が、若き音楽プロモーターのラッセル・シモンズでした。
さらに専属DJとしてジョセフ・シモンズが決定。ラッセルの弟です。
ジョセフはその後、友人のダリル・マクダニエルズと、DJのジャム・マスター・ジェイこと、ジェイソン・ミゼルとつるむように。
1981年には「Run-DMC」を結成し、1983年3月には最初のシングル「イッツ・ライク・ザット / サッカーMC’s」をリリースします。
Walk This Way – Run DMC, Aerosmith Music History – Washington Post
プロデューサーのラッセル・シモンズは、ランの兄であり3人の幼少期を知る人物でもあります。
「ジョーイ(ラン)とD(DMC)がキッズの頃、ヘロインやクラックで荒廃した近隣に住んでいた。それでもカトリックの学校に通い、いい子たちだった。
ジェイは公園あたりをぶらぶらしていた、タフなストリートキッズだった。
だからRun-DMCのヤツらは筋金入りなのさ」
プロデューサーとしてRUN-DMC最後のアルバム「クラウン・ロイヤル」に参加したダンテ・ロス氏は語ります。
「Run DMCは観客と同じファッションをした初めてのラップグループだった。デビュー当時からB-Boyだったんだ。」
靴ひもをしないで
アディダスを履くこの靴は盗んだんじゃない
ジーンズと最高のコンビだから
買ったのさ盗もうとしたヤツがいたんで
戦った俺は街を歩く
ビートにのせてジーンズはLee
そしてアディダスを履く俺は2-5thストリートに立つ
マイ・アディダスRUN-DMC「マイ・アディダス」より
大ヒット作「マイ・アディダス」の歌詞の舞台となったニューヨーク・クイーンズ区「205ストリート」は、DMC氏いわく「よく、たむろしていた場所」。
現在はホリス・アベニューと交差する街路を、2002年凶弾に倒れたRun-DMCのDJ、ジャム・マスター・ジェイに敬意を評し「RUN DMC JMJ WAY」と命名されています。
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