Superstar: How an Icon Was Born : GamePlan-A by adidas
スーパースターの誕生50周年を記念して、アディダスのウェブマガジン「GamePlan A」に掲載された特集記事。
時代は1960年代まで遡り、アディダス初のバスケットボール専用シューズとして生まれた、スーパースターの誕生秘話が書かれています。
アメリカの代理店からの依頼で製作がスタートした話や、創設者アディ・ダスラー氏の反対を押し切って、息子ホルスト氏のチームが内緒で開発を進めていった話。
当時、未だにナチスのイメージが残るドイツのブランドを、いかにアメリカのバスケットボール界にアピールしていったのか。
さらにNBA最弱小チームとの契約からスーパースターシューズへと登りつめていったエピソードなど、関係者の貴重なインタビューを交えたドキュメンタリーです。
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ヨーロッパでは老舗のアディダス、しかし北米ではアウェイだった
まず物語の初めに、1950年代のスポーツ用品業界が、どのような状況であったのか理解することが重要です。
私たちが知る現在とは全くの別世界だったと、アディダス社の歴史資料を管理するサンドラ・トラップは説明しています。
「当時、メインとなる世界的なスポーツ企業はわずかに2つ。
それがドイツに本拠地を置くアディダスとプーマでした。
まだスポーツ・ファッション業界などというものは存在せず、『シューズ』と言えばフットボールのピッチや、ランニングトラックで着用した専門的な履き物のことでした」
またアディダスはヨーロッパでは業界最大手でしたが、アメリカでは販売業者がほんの一握りしかありませんでした。
クリフォード・セバーンとクリス・セバーンが運営していた会社も、そのひとつ。アディダスのフットウェアを、陸上競技の選手に販売していました。
クリスによると「最初の頃の私たちは、選手たちシューズを売るのも1回に1組ずつ、という非常に小規模のビジネスでした。
戦後のアメリカでは『アメリカ製品を買おう』というポリシーがあったため、ドイツ製というだけで、スポーツグッズ店では取り扱ってもらえませんでした」
サッカーと陸上競技の世界では圧倒的に優勢なアディダスでしたが、いまいち存在感を示せていないスポーツ分野がありました。それが「バスケットボール」。
成長するアメリカのプロリーグでは「コンバース・オールスター」が独り勝ちの状況でした。
足首周りの高いキャンバスアッパーと加硫ゴムのソールが特徴で、オールスターは最先端と考えられていました。
しかし、クリスは高校時代にオールスターを履いてバスケットボールをプレイしていた経験から、改善の余地があると思っていました。
「歩いているときは快適ですが、ハイスピードでの移動、スタート・ストップや、ジャンプから着地などを繰り返すと、摩擦で靴の内側がやぶけ、かかとにひどい血豆ができました。
そこで怪我を減らすためには、もっと良いシューズが必要だと思うようになりました」
ホルスト・ダスラーを魅了したバスケットボール
アディダス・スーパースターの物語のカギを握る、もうひとりの人物はホルスト・ダスラー。
創業者アディ・ダスラーと妻ケーテの息子です。
「父ダスラーは人件費の削減を望んでおり、フランスでの生産拠点の設立が完了すれば、より競争力のある価格での靴の製造が可能になると考えていました。
23歳という年齢を考えると、それは大きな責任のように思えるかもしれませんが、しかしホルストは人生で多くの経験を積んでいました。」
アディダス社の歴史学者サンドラ・トラップは語ります。
「ホルストは英語やフランス語をはじめ、複数の言葉を話せるマルチリンガルでした。
世界中を旅行しアスリートとの仕事は定期的に行い、オリンピックを訪れてはシューズを提供するなど、ブランドをプロモーションしていました」
1960年のローマオリンピックで、ホルストはバスケットボールの試合の中でも、最高レベルのプレイを目撃することになります。
この頃までにはホルスト・ダスラーは、仲介業者のクリス・セバーンとビジネスパートナーとしての関係を築き、オリンピックのアメリカ代表に陸上競技用のスパイクシューズを提供していました。
クリスは以前「他社に対抗するための新しいバスケットボールシューズを作成する」というアイデアを出したことがありました。しかし、ホルストの反応はいまいちでした。
「ホルストは1960年のローマ・オリンピックに行くまで、このアイデアに心を動かされることはありませんでした。
しかし試合が始まると、これまでのバスケットボールに対する価値観が大きく変わることに。
アメリカの代表チームは、史上最高の全米オリンピックチームだったのです」
後にスーパースターの生みの親となるクリス・セバーンは語ります。
「途端に心奪われたホルストは試合後『バスケットボールシューズの製作は、とてもいいアイデアだと思う』と私に言いました」
ホルストはすぐにビジョンが見えた、とクリスは言います。
しかし問題は彼の両親であるアディ・ダスラーとケーテが同意しなかったことです。
「ホルストが両親に会うと『その必要はまったくない。バスケットボールは非常にマイナーなスポーツ。時間も資金も無駄にしたくない』という返事が」
「しかしホルストはバスケットボールに夢中でした。『シューズの製作にはとりかかります。しかしこのことは両親には内緒です』と言いました。
侮辱する意図はまったくありません。ただ、ホルストが思い描いていたビジョンが、彼の両親には理解できないようでした」
前身モデル「スーパーグリップ」の誕生
その後の数年間にわたって、クリス・セバーンとホルスト・ダスラー、そしてアディダスのフランスチームは開発作業を開始。会社の経営陣には極秘で行われました。
アディダスのウェブマガジン「GamePlan A」の編集者マット・ウォルターズは語ります。
「アメリカのプロ選手たちが最も愛するコンバース・オールスター。それから鞍替えしてもらうように説得するには、完全に優れたものを作らなければならない、とクリスは考えていました」
「オリンピアード」と呼ばれるトレーニングシューズのシルエットからスタート。
クリスが若い頃バスケをプレーしている際に経験した、いくつかの問題点を解決するため、最新技術を用いた機能を追加していきました。
特大サイズのヒールカウンター(かかとが収まるカップ状のもの)は、靴の中で足が滑ることを防ぎ、足首の捻挫のリスクを減らします。
靴ひもをきつく締めすぎた場合におこりがちな血行障害を、パッド入りタンが防止。選手のランディングによる靴の破損を、ヒール部分のウェッジが防ぎます。
そこには今日私たちが知っているスーパースターの、見覚えのある特徴がすでにいくつもありました。
「まず第一に、私が履いていたコンバースは、床に対しグリップ感が十分ではない、といつも感じていました。そこでソールを「ヘリンボーン」パターンで作成。より優れたトラクションを提供するために、滑りにくいモーバンラバーを採用しました」
スーパースターの開発者クリス・セバーンは語ります。
「サポート力を上げるためアッパーにはレザー素材を選択。当時バスケットボールシューズはキャンバス製が主流だったので、非常に斬新な仕上がりになりました」
新しい試作品が開発されるたびに、クリスはアメリカの選手たちとテストを行い意見を聞いていきました。
すると、繰り返し起こる問題点のひとつに、試合中に靴に負荷がかかりソールの層がばらばらになってしまう、というものがありました。
スーパースターの開発者クリス・セバーンは語ります。
「私たちは試行錯誤を通じて多くのことを学びました。そしてそれは『ディッシュ・ソール』の開発につながっていきました。
まず、数枚の素材を接着するという工程をやめ、単一のユニットからなるソールに変更。
型によって一体成型された皿状のソール『ディッシュ・ソール』が生まれました。
『ディッシュ・ソール』は当時としては革命的な発明でした。
しかし完成後、ソールとシューズとの固定に接着剤を使用してみましたが、その状態をキープすることはできませんでした」
「いままでアメリカでは前例がない方法、シューズをひとつ靴職人のところへ持って行き、ソールの外縁周りを縫ってもらうことにしました。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、そのほんのちょっとした手縫い糸が、シューズとソールを繋ぎ止めたのです」
1965年、ついにクリスとホルストらによって新しいバスケットボール・シューズが完成。
彼らにとってコンバース・オールスターよりも優れていることは明らかでした。
このシューズは「スーパーグリップ」と名付けられ、ハイカットバージョンは「プロモデル」と命名されました。
最後に彼らがやらなければならないこと。それは北米の主要選手に「スーパーグリップ」と「プロモデル」の着用を説得することだけでした。
サンディエゴ・ロケッツが初めてアディダスを歓迎した
スーパーグリップの問題点は、選手や小売業者たちが「慣れている」シューズと、かなり違っていたこと。彼らはなかなか信用してくれませんでした。
スーパースターの開発者クリス・セバーンによると、スポーツ用品の販売代理店は、まったく興味を示さなかったため最後の手段として、選手に個別にアプローチをとっていきましたが、結果はさまざまだったと。
さらにクリスは語ります。
「選手たちは『それはなに? トラックシューズ?』と聞いてきます。
わたしは『大丈夫。とにかくこのシューズを着用してプレーしてみてください。きっとこの靴の素晴らしさを理解できるでしょう』と説得していきました」
「何の誇張もない思い出です。コンバースを脱がせ、私たちのシューズにすっと足を入れてもらい。そして靴ひもを結んでもらう。
シューズを履いてプレーさえしてくれれば、たいていはうまくいきました」
クリスはなんとか一人のプロ選手を説得。
ジョン・ブロックという期待の新人でした。
彼は当時NBAに設立された新しいチーム、サンディエゴ・ロケッツに移籍したばかりでした。
「ジョンはスーパーグリップをとても気に入りました。彼は辛い足のケガに悩まされていたからです。それは私が高校時代、バスケットボールのときに抱えていた問題と同じものでした」
スーパースターの開発者クリス・セバーンは語ります。
「ジョン・ブロックは私のもっとも強力な『支持者』になりました。そして私にロケッツの新しいコーチを紹介してくれました。
私がコーチにそのシューズを履かせると、彼は歩き回りながらこう言いました。
『このシューズは最高の履き心地です。もし選手たちと話がしたいのでしたら、どうぞいいですよ。邪魔はしません。そして選手たちが履きたいと言うのなら、私は構いませんよ』
チャンス到来です」
サンディエゴ・ロケッツの選手たちとの関係を築いたクリスは、大きな進歩を感じてました。
しかし、プレシーズンのエキシビションゲームを見に訪れたとき、彼をとてもがっかりさせる光景が。
ロケッツの選手が誰一人としてスーパーグリップを履いていないのです。
「ああ、なんてことだ。そもそも彼らは履くつもりなんてなかったんだ。やっぱり本気でコンバースが好きなんだ。どうやったって、トッププレーヤーにアディダスを履いてもらうことなんて無理なんだ」
「本当にギブアップしたい気持ちになりました。ところが開幕シーズンの試合を迎えロケッツが登場すると、チームの選手全員がアディダスの靴を履いていました。悩みも吹っ飛び、本当に爽やかな気分でした」
「試合後『エキシビションゲームでスーパーグリップを履かなかったのは、なぜですか』と尋ねると、『本当に優れたシューズなので、フルシーズンに向けて履きたいと思っています。なのでエキシビションでは履きたくありませんでした』と彼らは言いました」
さて、この物語「シューズの性能のよさのおかげで、サンディエゴ・ロケッツは最初のシーズンにリーグ優勝を果たした」となれば完璧なエンディングだったのでしょう。
もちろん、現実はそうはいきません。
当時ロケッツはNBAで創設されたばかりのチーム。
リーグのすべてのチームに敗退し最下位となりました。
しかし、ロケッツにアディダスのシューズを提供したことが、結果的に「きっかけ」を与えてくれることに。
「新しいコンセプトの最新型バスケットボールシューズを、対戦チームのすべての選手が、初めて試合の場で見ることになったのです」
「ロケッツと対戦するために、さまざまなチームがカリフォルニアにやってきたので、私はその都度チームに出向き、選手たちと親しくなっていきました。
そして足のサイズを取得し、シューズをオーダー。
私は選手たちそれぞれにシューズを履かせていきました」
翌シーズン、幸運にもボストン・セルティックスの選手たちに、アディダスを提供する機会が訪れました。
セルティックスは、その年のNBAファイナルを制覇。
北米のバスケットボールシーンに、アディダスが「上陸」したことを証明しました。
「スーパーグリップ」から「スーパースター」へ
ところで、スーパースターの話はどうなったのでしょう?
その誕生は「スーパーグリップ」と「プロモデル」の遺伝子を受け継いだもので、選手たちからのフィードバックによって完成しました。
つま先には特徴的なシェルトゥが追加され、1970年に初代モデルの公式販売が開始しました。
かつてバスケットボール界では、アディダスのシューズが絶大な人気を得た時代がありました。
スーパースターの開発者クリス・セバーンによると、北米のプロリーグ選手の75%が「スーパースター」か「スーパーグリップ」、または「プロモデル」を履いていたと推定しています。
これはすべて、スポンサー契約なしの数字です。
現在この数字を確認することは難しいでしょう。しかし、北米のバスケットボール選手が、アディダスのシューズに夢中だったことは間違いありません。
ストリートアイテムとして復活
1980年代初頭に入り、シューズのテクノロジーが進化し続け、選手個人のスポンサーシップがバスケットボールのゲームを変化させていきました。
スーパースターを着用していた選手たちも、アディダスの新しいモデルや競合ブランドへと移行していきました。
しかし、これはスーパースターの物語の結末ではありません。
それ以前の他のシューズとは異なり、スーパースターはスポーツから重要な一歩を踏み出しました。
アディダス社で歴史資料を管理するサンドラ・トラップは語ります。
「スーパースターが長い期間、成功を築き上げてきた秘訣は、バスケットボールのコートからストリートへ飛び出したことです。
試合が終わった選手は、そのままスーパースターを履いて家に帰ることができました。
見た目もかっこよかった。
スーパースターはスポーツの枠を越え、ストリートファッションの世界に足を踏み入れました」
関連記事:RUN-DMCは、何が画期的だったのか?
1980年代半ば、Run-D.M.C.がスーパースターから靴ひもを取り除き、愛用スニーカーを歌った名曲をリリースしたことで、スーパースターは歴史にその名を刻みました。
それ以来、幾度も再構築・再設計され続けるスーパースターですが、そのアイデンティティを失うことはありません
スーパースターのあまりにも有名なシルエットが、なぜこれほどまでに「長寿」で居続けることができたのか。
開発者であるクリス・セバーンに尋ねると、実にシンプルな回答が返ってきました。
「不朽のルックス。まさにクール」
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