スニーカー情報サイト「ソールコレクター」経由で話題になったインタビュー。
ナイキACGの発足メンバーで数々の名作を生み出した、スティーブ・マクドナルド氏がドイツのスニーカーサイト「sneakerfanten」のインタビューに答えています。
スティーブ氏がナイキを離れた後のACGや、ナイキが大企業となって新しい物が生まれづらくなったというネガティブな発言。彼の現在の後遺症の話(2012年に脳の疾患を発症し、リハビリで85%の「言葉」を取り戻した)など赤裸々に語られていますが、当時の貴重な体験からスニーカーの誕生秘話など興味深い発言を抜粋します。
1990年よりプロジェクトをスタート。
Interview Steve McDonald- Nike ACG
かつてナイキの心臓部でACGのデザイナーとして活躍したスティーブ・マクドナルド氏が、ACGがどのようにして始まったのか、またACGとは何だったのかをリアルに語っています。
パフォーマンス・シューズの歴史の中で、最も影響力のあるデザインを常に作り出したスティーブ氏。彼は当時スポーツマンとしても現役だったため、靴作りに関して非常に特殊な視点を持っています。
– あなたは、初期ACGのいつごろからプロジェクトに関わったのですか?
私がナイキで働き始めたのが1988年のごく早い時期です。
マーク・パーカーとジェフ・ホリスターと一緒に、ウォータースポーツ・ソックとサーフボート・シューズの仕事をしました。
(マーク)パーカーは私がナイキの従業員でいることを望んでいましたが、私はサンフランシスコのブランド「エスプリ」に行くことにしました。
私が従業員としてナイキに戻ったのが1990年。彼らとは別のメンバー数名で「ACG」を開始しました。
「モワブ」「アゾーナ」「リバデルチ」
– どのようなことがきっかけで「アゾーナ」のような、時代を超越した名作を生み出すことができたのですか?
「モワブ」という名前(「Mowabb」という綴り)をひらめいたのは、ティンカー(ハットフィールド)であると、わたしは確信しています。
私はもともとユタ州出身ですから、そのアイデアが大好きでした。
「エアモワブ」の名前の由来は、アウトドアの聖地、アメリカ・ユタ州の都市「モワブ」(Moab)から。
都市名「Moab」にアルファベットの「b」をあえて加え「Mowabb」としたのが画期的、とスティーブ氏は語っています。
そんな感じで私は「ユタ」「エア・アゾーナ」「ワイオミン」「エア・アストートル」「エア・リバデルチ」などの名前を提案していきました。
「ユタ」は、ユタ州の「Utah」を「Yewtah」に綴りを変え、「アゾーナ」(Azona)はアリゾナ州(Arizona)から。「ワイオミン」(Whyomin)はワイオミング州(Wyoming)から。
スポーツサンダル「アストートル」(Astotle)は、哲学者アリストテレス(Aristotle)がサンダルを履いているイメージ。
「リバデルチ」(Revaderchi)はイタリア語の「arrivederci」からで、英語の「see you again」の意味。
私はその頃、ユタ州やアリゾナ州、ワイオミング州、コロラド州周辺で、ハイキングや登山に多くの時間を費やしていました。
エア・アゾーナは、フリーソロ・クライマー、ピーター・クロフト氏のためにデザインしました。
彼はシエラ・ネバダ山脈の尾根を登るためのシューズを必要としていました。粘着性のあるゴムを使用した、快適性、耐久性の高い超軽量モデルを求めていました。
当時のピーター・クロフト氏は、今のフリークライマーで例えると、アレックス・オノルド氏のような存在です。
参照:
Peter Croft – Sierra Mountain Guides
About – Alex Honnold
コアなファンを獲得したACG
– 数年間ほどはナイキの会社の中でもACGは高い立場にあった、と聞きました。ACGは本当にファッション指向ではなかったようですね?
ナイキは1992年から2001年まで、ワイオミング州ティトン郡の(北米で最も古い登山ガイド・サービス)「エクサム・マウンテン・ガイド」のスポンサーでした。
それはこの上なく筋金入りなことで、登山ガイド達はACGのシューズやブーツ、アパレルを愛していました。
ACGを流行りの言葉で表現するならば、最も高い性能が筋金入りのパフォーマンスを生むことができる、ということです。
ACGのデザインは本当に気に入っています。そして、この仕事に非常に満足していました。
– 1990年代の始めに新製品として登場したACGに対して、最初の人々の反応はどうでしたか?
コミュニティのいくつかには非常に好評でした。最新ファッションに敏感な日本人や、実際に登山ガイドとして働く人たち。ニューヨークのデザイン・リーダー、ナイキのシューズマニアの人たちです。
理解されるまでが戦いだった
– ナイキのような巨大でメジャーなブランドのなかで、新しいコンセプトや改革をもたらすことは、どのように難しいことなのですか?
いい質問です! 確かにいま、本当の技術革新をもたらすことは、はるかに困難であると思います。
マーケティング担当者が大勢いますし、副会長や弁護士もいます。中には出世欲の塊のような同僚や「やるかやられるか」の争いは山ほど存在するのです。
当時でさえ、真の革新モデルを販売することは、信じられないほど難しいことでした。
私は1990年、オリジナル・サンダルである「エア・デシューツ」をデザインしました、しかし、販売までの丸2年、私は地獄のような戦いをしなければなりませんでした。
最終的にナイキは数百万足の「エア・デシューツ」を販売。それはナイキにとって初めてのスポーツ・サンダルとなりました。
これは簡単なことではありません。
「リバデルチ」の1と2は売りにくい商品でしたが、私たちはやり遂げました。私は今でもリバデルチはお気に入りです。
私たちが「ポテトシューズ」と呼んでいたACGエアモックに関しては、もうすこしで計画をすべて打ち切るところまでいきました。そうならないように私たちは実現に向け、死に物狂いで戦いました。
結果、ナイキは10年以上にわたってエアモックを販売することができました。
ただ、ACGの「コンシダード」シリーズに関しては、プロジェクトも含め非常に満足していましたが、売れ行きは良くなく、市場を開拓することはできませんでした。
– ナイキACGの初期の頃、何人の人が働いていましたか?
最初の1年半は私だけでした。ACGとナイキのフォース系バスケットボール・シューズを担当していました。その後、私の他に、トリップ・アレン、キャシー・ベイリー、セルジオ・ロザーノが参加しました。
– アルファ・プロジェクトにも、あなたが関わっていますか?
「アルファ・プロジェクト」はマーク・パーカーです。本当に良いアイデアだった。とにかく最高のプロジェクトでした。
– すべて「宿命だった」というよりは、ナイキはあなたにとって素晴らしくクリエイティブな時間だった、というように聞こえますが?
長年ナイキで仕事をしたことは、今でも本当に幸せだと思っています。
素晴らしい開発者や、職人の方々、エンジニア達、3Dの熟練者、そして生産工場と共に仕事をしてきたことに、私は誇りを持っています
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