ロバート・ハイレット(Robert Haillet)

TENNIS DE FRANCE MAI 1958
TENNIS DE FRANCE MAI 1958
: Robert Haillet Vainqueur du Tournoi de Monte-Carlo 1958
via. www.le-livre.fr

毎年モナコ・モンテカルロで行なわれる国際テニス競技大会「モンテカルロ・マスターズ」。
1958年のシングルス優勝者としてテニス雑誌の表紙を飾るロバート・ハイレット。
フランスのテニス専門誌「テニス・ド・フランス」1958年5月号より。

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フランス生まれのテニスプレーヤー


ロバート・ハイレット(ロベール・ハイレ)は1931年、フランス南西部ポー(Pau)にて生まれました。

父、コンスタン・ハイレット(Constant Haillet)は、1942年から1946年までポー市の市議会議員を務めた人物であり、地元のテニス・クラブ「ローンテニスクラブ・デ・ポー」の経営者兼テニスの教師でもありました。

そんな環境の中、ハイレットはアマチュアのテニス選手としてのキャリアをスタート。(出場記録として最も古いものに)1949年にモンテカルロ・カップ、イタリア・リビエラ・チャンピオンシップに出場。1950年には、全仏選手権、ウィンブルドン選手権に初出場。フランス国内では1956年、1958年のナショナル・チャンピオンに輝きます。

50年代中頃からは、デビスカップ・フランスチームの中心人物として活躍。個人の記録としてはモンテカルロ・マスターズのシングルスで2度優勝(1958年、1959年)。ローラン・ギャロス・トーナメント(全仏オープン)ではセミファイナリストに。(1957年、1958年男子シングルス・ベスト8、1960年男子シングルス・ベスト4)

なかでも、1958年全仏テニス選手権の大逆転劇は伝説に残る試合として知られています。

それは、4thラウンド・マッチでのことです。
対戦相手はアメリカのバッジ・パティー(Budge Patty)。

パティーは第5最終セットで5-0、40-0とリード。マッチポイントを迎えましたが、あと1点入れることができず、ハイレットが主導権を握る展開に。その後ハイレットが7連続ゲームに勝ち、7-5で勝利となりました。(ハイレットはこの大会、クォーター・ファイナリスト(ベスト8)に。)

プロ転向


1960年代に入りハイレットはプロのテニスプレーヤーに転向。

ウィンブルドン選手権をはじめとする4大国際大会(全英、全米、全仏、全豪)は、1960年当時アマチュア選手のための大会だったため、ハイレットは「全仏プロテニス選手権」「ウェンブリー選手権」などのプロ選手権に出場。

フランス代表としてはトレーナーとしてチームを支え、デビスカップチームのコーチとして大会に参加しています。

また、後にテニス界のオープン化※1に関わることになる「テニス界のドン」ジャック・クレーマー(Jack Kramer)率いるプロ・テニスツアー※2 唯一のフランス人プレーヤーとして参加することとなります。

プロ時代の個人の成績としては、1963年と1966年に全仏大会男子シングルスで、クォーターファイナルに進出しています。

EDITION SPECIALE AVANT LA COUPE DAVIS
EDITION SPECIALE 1964 image from www.ina.fr
(写真上)1964年のデビスカップにヨーロッパゾーンの決勝戦まで勝ち進み、フランス代表のコーチとしてTVの取材に応じるハイレット。フランス代表VSスエーデン代表は7月31日から8月3日の間5戦行い、4対1でスエーデンが進出。この年のデビスカップはオーストラリアが優勝しています。


EDITION SPECIALE AVANT LA COUPE DAVIS
EDITION SPECIALE 1964 image from www.ina.fr
(写真上)同番組にてフランス国内の試合で使用するテニスボール(トレトン製(Tretorn))と国際試合で使用するボール(ダンロップ製(Dunlop))の圧力の違いについて解説するハイレット。


全仏プロテニス選手権のロバート・ハイレット
French Pro Championship 1965 image from www.ina.fr
(写真上)1965年全仏プロテニス選手権のロバート・ハイレット。(この年の大会は会場が屋内コートだったので、写真は練習風景の様です。)ハイレットはラウンド16にてフランク・セッジマン(Frank Sedgman)に敗退。優勝はオーストラリアのケン・ローズウォール(Ken Rosewall)。


全仏プロテニス選手権のロバート・ハイレット
French Pro Championship 1965 image from www.ina.fr
(写真上)1965年全仏大会にて試合の合間に私服でくつろぐ選手たち。左からロッド・レーバー(Rod Laver)、フランク・セッジマン(Frank Sedgman)、ロバート・ハイレット(Robert Haillet)


アディダスのフランス進出とテニスシューズ「ハイレット」


プロ転向後の1960年代の初頭、ハイレットはドイツのスポーツブランド、アディダス社とスポンサー契約を結んでいます。

アディダスの当時シューズ設計の責任者であったホルスト・ダスラー(Horst Dassler)は、父アドルフ(Adolf Dassler アディダスの創始者)が開拓したトラックとフィールド向けのシューズやフットボールブーツの分野から、新しいスポーツシューズの可能性を模索していました。

ホルストは、フランス・アルザスの小さな靴メーカーを買収し、親の監督から離れ、独立した事業のために生産拠点をフランスに設けました。

そして、新しいアディダスのアイコンとして、その年(1963年)全仏テニス選手権にてクォーターファイナリストとなった、ロバート・ハイレットに革製のテニスシューズの着用を提案します。

当時フランスでは、キャンバス製/ラバーソールのテニスシューズが主流で、ハイレットもフランス製のテニスシューズ「スプリングコート(spring court)」を愛用していました。

ホルストのアイディアは、軽量皮革製のアッパーをヘリンボーン柄のラバーソールにステッチで接着するというもの。更に従来のアディダスのテンプレートを無視し、すっきりとしたプレーントゥ・ダービーパターンにデザインしました。
それは、従来のテニスシューズとは逸脱したものでした。

完成するまでに1年、そのシューズは、ロバート・ハイレットの名前が冠され※3、アディダスシューズの新しい顔となりました。

ハイレットのテニスシューズは、レザー製のテニスシューズとしても最初期のものと言われ、またアディダスのコートシューズ(バスケットボール・シューズなどを含む)としても最初期のモデルとなりました。

初期のロバート・ハイレット(Robert Haillet)
初期のロバート・ハイレット(Robert Haillet)

初期のロバート・ハイレット(Robert Haillet)
アディダス・ロバート・ハイレット(adidas Robert Haillet)
image from adidas

アディダスで開発された、ロバート・ハイレット(adidas Robert Haillet)の初期モデル。アッパーはまだ白一色で、アウトソールはヘリンボーン・ソールを使用。サイド部分には(ほぼ消えかかっていますが)Robert Hailletのネーミングが配されています。


adidas catalogue France,1968
ADIDAS TENNIS adidas catalogue France 1968
image from adidas

(写真上)「フランスのデビスカップ選手の75%はアディダス製のシューズを着用しています。」1968年アディダスのフランス市場向けカタログ、テニスシューズカテゴリより、左から「ハイレット(HAILLET)」と若いプレーヤー(子供)向けの「セット(SET)」。カタログの右下にはハイレットの写真が掲載され、自身でハイレットモデルの屈曲性の良さをアピールしています。(写真下は拡大イメージ)


adidas catalogue France,1968
image from adidas

引退


プロ選手引退後のハイレットは、フランスをはじめ、イタリア、スペインのデビスカップ・チームのコーチとして活躍。

その後、シグネチャー契約を結んでいたアディダス社に招かれ、セールス・ディレクターに就任します。

彼の息子であるジャン・ルイ・ハイレット(Jean-Louis Haillet)は1972年フランスのジュニアチャンピオンとなり、プロのテニスプレーヤーとして(1972年から1984年の間)活動しました。


2011年9月27日 ハイレット死去


フランス南西部の地域情報誌 sudouestの2011年9月27日の記事より

ポー出身の元テニスプレーヤー、ロバート・ハイレット氏が昨夜ニースで亡くなりました。
ハイレット氏は1931年9月26日生まれ、昨日はちょうど80歳の誕生日でした。

1952年から1960年までフランスでのナンバー1プレーヤーとして活躍。1958年と1959年モンテカルロでの優勝以来、彼は世界中を回り、デビスカップでは合計54のトロフィーを獲得しました。

Robert Haillet n'est plus
image from www.sudouest.fr

※1 テニスの「オープン化」

1968年、当時テニスのアマチュア大会だった、ウィンブルドン、フランス、全米、オーストラリアの4大大会にプロ選手の出場が認められることとなりました。

それまでアマチュアとプロには大きな壁があり、さらに4大会は神聖なものであったためプロに転向したプレーヤーは出場することが禁止されていました。

しかし世界的にブームになりつつあったテニスは、ツアーイベントが大規模に行われるようになります。ウィンブルドンなどで優勝したトッププレーヤーがどんどんスカウトされプロの世界へ。神聖であるはずの4大会とプロの試合レベルの格差が問題視され始めました。

そういった意味で非難の的となっていた、当時最も大規模なイベント「プロフェッショナル・テニスツアー」を率いたジャック・クレーマー(Jack Kramer)が中心となり、1968年ウィンブルドン、フランス、全米、オーストラリアの4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施されます。

これを、テニスの「オープン化」と呼び、「全米オープン」「全仏オープン」「全豪オープン」などの名称はそこに由来します。

テニスのオープン化は、同時にテニスの選手がスポンサー契約を求めることができる時代が到来したことを意味しました。

※2 プロフェッショナル・テニスツアー

1947年12月27日、ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデンにて、テニスツアーのデビュー戦が行われました。

観客動員は1万5千114人。ジャック・クレーマー(Jack Kramer)とボビー・リッグス(Bobby Riggs)というそれぞれ4大大会優勝の記録を持つスタープレーヤーによる試合は各地を回り、最終的にそのツアーの試合結果は「69勝20敗」でクレーマーの勝利となりました。

クレーマーは興行のため自ら世界のトッププレーヤーたちをツアーにスカウトし、自身も花形スターとしてツアーを牽引。1952年にはテニスツアーの会長に就任しました。

フランスでのトッププレーヤーとして、ロバート・ハイレットも招かれ、ツアーには、ロッド・レーバー(Rod Laver)、ケン・ローズウォール(Ken Rosewall)、トニー・トラバート(Tony Trabert)、パンチョ・セグラ(Pancho Segura)、ルー・ホード(Lewis Hoad)ら蒼々たるメンバーが参加していました。


※3 アディダス・ハイレット(adidas Haillet)

ロバート・ハイレットのテニスシューズは、彼が引退後も「アディダス・ハイレット」としてモデル・チェンジしながらもリリースされ続けました。

アディダスのホルスト・ダスラーはその後、テニスの強豪オーストラリア、アメリカなど海外のスポーツ市場に進出。オーストラリア出身のテニスプレーヤー、ロッド・レーバー(Rod Laver)やジョン・ニューカム(John Newcombee)とスポンサー契約を結びシグネチャーモデルをリリースしています。

アメリカからは当時黄金期を迎えていた、スタンレー・ロジャー・スミス(Stanley Roger Smith)がアディダスの顔として選ばれました。スミスは競技にハイレットモデルを愛用。のちにこのシューズはスタン・スミス・モデルとリネームされアディダス・ブランド最大のヒットシューズとなります。

adidas stan smith Haillet
アディダス・ハイレット(adidas Haillet)
image from adidas

1976年デンマーク市場向けのアディダス・カタログに掲載されたハイレット。シュータンにはHAILLETとプリントされていますが、アッパーサイドには、スタンスミス(STAN SMITH)の名前が配されています。このカタログでのモデル名は「ハイレット」になっていますが、その他のカタログや広告などでは「スタンスミス・ハイレット」「ハイレット・スミス」などと紹介されることもあった過渡期のモデルです。


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